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ボツネタ供養:「クレーンゲームの歴史」前編(海外編)

はじめに

昔、さまざまなゲーム機の歴史を取り扱った動画シリーズである(本人曰く「MAD動画」)『ゲームグラフィックTV』に触発されて、「クレーンゲームの歴史」動画を作ろうとしたが、資料整理と脚本執筆まで終えたところで行き詰ってしまった。


映像を作るのは難しいし、ナレーションも恥ずかしい。しかし作文は得意だと思っている。ということで、ボツネタ供養としてブログ記事にしようとしたのが本エントリである。

資料整理と脚本執筆を行ったのは2012-2013年頃である。したがって、本文では2013年時点で得られた情報を元にしている。その間の2014年に「一般社団法人 日本クレーンゲーム協会」なる団体が設立されており、クレーンゲームの歴史が記されている。
kuretatsu.com

脚本執筆の時点では存在しなかったコンテンツなので、上記のサイトは参考にしていない。本ブログにリライトする際にもあえて参考にしていない。以下に記すのは筆者の独自研究である。その点理解してほしい。

ボツネタ供養を行うようになったきっかけ

は、この記事でも取り上げられている、Erie Digger である。この記事を見て、ヤフオクはもちろん洋書や海外通販(支払手段が限定されており、為替証書で支払ったこともある)を駆使して、様々な資料を取り寄せて読みふけった過去を思い出したのである。

【クレーンゲーム世界一のお店ならではの文化展示】クレーンゲームルーツの約100年前の貴重な手動式レトロ台を11月3日(文化の日)から3日間限定、無料展示します! | 株式会社東洋 | プレスリリース配信代行サービス『ドリームニュース』
www.dreamnews.jp

筆者の現在のクレーンゲームに対するスタンス

業界史は基本的に市場の勝者の歴史観(つまりポジショントーク)で語られることが多いが、できるだけ中立の立場を心がけることが知的にも誠実だと思っている。一応、執筆の前に筆者の立場を明確にしておく。筆者はクレーンゲーム業界の現状をあまり良く思っていない。こういう思想を持っているという前提にしてほしい。繰り返すが本記事は独自研究である。




※訂正:5割は言い過ぎだった。AOUの資料を見る限り3~4割程度のようだった。
※陳情を重ねて警察庁から引き出した「小売価格が概ね800円以内であれば問題ない」という(風営法には明記されていない)解釈は、有権解釈と呼ばれ法的な拘束力を持つものである。

以下ボツネタ本編。脚本(動画のナレーション)ベースでのリライトである。

はじめに

日本のアミューズメント施設の顔役として、商業的に成功しているにも関わらず、文化的側面は軽視されている感のある「クレーンゲーム機」の歴史を紹介する。本記事では、アメリカでの誕生から、セガ・UFOキャッチャーの登場、現在までを歴史・背景事情も交えて記す。本エントリでは前編として海外史を中心に記したい。

本エントリは、いわゆる景品の取り方講座のようなハウツーの類ではない。

筐体・メーカー名は、個人所有のブローシャー(業者向けパンフ)や業界誌、企業サイトなど、一次・二次史料をベースにし、独自に行なった当時の業界関係者からのヒアリング結果を優先している。不足する情報は出所不明のウェブ情報に依拠しているが、資料そのものが非常に少ないため、その正確さを保障することはできない。

本エントリでは、特に以下の書籍に大幅に依拠している。足りない情報や保管的に書籍やデータベースサイトを参照している。

それは「ポン」から始まった-アーケードTVゲームの成り立ち

それは「ポン」から始まった-アーケードTVゲームの成り立ち

アメリカでの誕生

米国ではペニーアーケードと呼ばれる、いわゆる「ゲーム場」の登場は、1870年代とも言われている。

その起こりは、米国の主要都市に出現した「フォノグラフパーラー」と呼ばれる、硬貨作動式のフォノグラフ(蓄音機)を主力としたスペースといわれているが、次第に小銭(ペニー)で遊べるゲーム機が、小売店が列ぶ通路(アーケード)の一角に集まってきたことから、ペニーアーケードと呼ばれるようになった。

エジソンが蓄音機を発明・実用化したのは1877年

当時のゲーム機は、いわゆるノベリティ機(Novelity)と呼ばれる、ちょっとした新規性を売り物にした機器がほとんどで、のぞき眼鏡式の映写機「キネトスコープ」や立体写真ボックス、占い機、力試し機、体重計などといったものが主流だった。

キネトスコープもエジソンの発明。1891年

人々が夢中になって楽しめるほどの本格的なアーケード機はまだ登場していなかった。

世界初のスロットマシン「リバティベル」の登場は1899年
フリッパー機(ピンボール)の原型「バッフルボール」の登場は1931年(1930年とする書籍もある)

東京ディズニーランドには、その当時のペニー・アーケードを再現したスペースがあり、クレーンゲームも収蔵されているようだ。
www.youtube.com
フロリダ州オーランドにあるディズニーランドとユニバーサル・オーランドはそれぞれ3回も行ったことがあるが、敷地面積が広大すぎてクレーンゲームを見つけることができなかったのが心残りである。またオーランドでヨーヨーの世界大会を開催してくれないものだろうか…。旅行中は時間が止まっているような錯覚を覚えて、ホテルの部屋を出てロビーに出ると皆がヨーヨーを振っているという非日常の空間で、食事もハンバーガーをコーラで流し込む生活で、それはそれでとても楽しかったんですけどねえ。筆者の昔話ですんません。

ディガ(クレーンゲーム機)の登場

ディガ(Digger)と呼ばれるクレーンゲーム機が初めて登場したのは、1896年頃とも1915年頃とも呼ばれているが、正確な起源ははっきりしない。

その当時のディガは、キャンディベンダー(あめ玉の自販機)を目的とした子供向けの遊技機器であり、建設作業機械のミニチュアが筐体に収まっていたことから、ノベリティ機のひとつという意味合いが強い。また、電気機械を取り入れるという発想はまだなく、ハンドクランクを回す事で動作するというものであった。

1920年代に入ってからは、ディガは活気づくようになり、主に移動遊園地や感謝祭といったイベントで重用されるようになる。このあたりから、クレーンの動きが電動化された機種が増えるようになるが、メンテナンス性の悪さや、電気モーター自体の信頼性の低さもあり、昔ながらのハンドクランク型の筐体も共存している。

1プレイ1セント、あるいは5セントが相場であった。

当時のディガに技術介入の要素はほとんどなく、ゲーム性としては運まかせのくじ引き方式、あるいはコンプガチャのようなギャンブル性の高い遊技機器であることに留意すべきである。

この時代の代表的なディガをいくつか見てみよう。

Erie Digger

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画像出典:http://www.jamesroller.com/
Erie Manufacturing Corporation の Erie Diggerは、1924(-1946)年に登場した(製造時期や修繕などで個体ごとに細部の外見は異なる)。

Erie Digger は、昔ながらのハンドクランク型の手動スタイルだが、電気機械を使わないぶんメンテナンスが容易であることから、移動遊園地や感謝祭のオペレーターから評価が高く、長らく利用されることになった。

筐体の中に入る景品は、キャンディやピーナッツといったものが主流で、キャンディベンダー、ピーナッツベンダーというものがあるように、あくまで「お菓子の自動販売機」の延長線上のものであった。

景品として、現金を入れて運用するオペレーターが現れるようになったのもこの頃からである。移動遊園地や感謝祭の出し物の一つとしてのディガだったが、この変化は、小さな町にまでギャンブルを持ち込むことになった。

Bartlett Nickel Digger

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画像出典:http://www.pinrepair.com/arcade/bartlet.htm

Bartlett Nickel Digger は1926年に登場した。スロットマシンの激増によりギャンブル化の波が押し寄せる中、ウィリアム・バートレット(William Bartlett)によって設計された Nickel Digger は、ニッケル(5セント白銅貨、転じてわずかのお金の意味)の名が示すとおり、現金キャッチャーとしての運用を前提としたディガである。

主な景品は、5セント白銅貨や1ドル銀貨だったようだが、現在メダルゲームでもよく見かける、コインの束をセロファンで束ねたものも、すでに存在していたようである。

このディガの大きな特徴は、筐体を業者向けに販売していない点にある。筐体を売ることで利益をあげるのではなく、バートレットによって雇用されトレーニングを受けた係員が、移動遊園地や感謝祭といった現地で Nickel Digger を運用して利益を上げるというビジネスモデルを構築していた。

1920-1930年代のディガ

先に紹介したディガは、移動遊園地や感謝祭を主なロケーションとしていたが、それ以外にもディガは多数存在しており、様々なロケーションで展開されていた。例えば、ペニーアーケード、浜辺沿いの遊歩道や、ドラッグストア、カジノや博覧会にもディガは設置されていた。

この頃は、ディガに限らずアーケード機全般にアール・デコ調のデザインが増えるようになる。特に木製の筐体は、インテリアとしての格調高さがある。筐体のデザインにも、大衆機と高級機という住み分けが存在し、高級機はホテルのロビーやデパートにも設置されていたようである。

アール・デコ
アメリカ(ニューヨーク)を中心に1910年中頃~1930年代にかけて流行、発展した装飾の一傾向。1925年様式。

世界恐慌とギャンブル化

1929年、ウォール街の大暴落により世界恐慌が発生する。恐慌は1933年にピークを迎えるが、1930年代には複数のメーカーから30機種以上のディガがリリースされている。

一見矛盾した現象にも思えるが、同時期のピンボール人気と同様、仕事に就けない労働者が、ポケットにある小銭を支払うだけで遊ぶことができたことがヒットの要因とされている。

ピンボール
ここでは筐体下部についているボールを弾き返すフリッパーが付いていない筺体を指す。初期のピンボールはフリッパーがついていなかったのである。フリッパーがつくようになったのは、1947年ゴットリーブの『ハンプティダンプティ』から。
www.youtube.com
フリッパーがついている機種は「フリッパー機」と呼ぶべきだが、本稿ではピンボールで統一する。

ディガもピンボールも、ゲーミングマシン(ギャンブルマシン)への転用の流れが次第に強まってきたが、100社以上が参入するほどの過熱ぶりになったピンボールに関しては、早くから違法化される動きが現れ始める。

1910年頃 スロットマシンが多くの州やカウンティ(群と訳される、州未満の行政区間)で違法化
1931年 ネバダ州でギャンブルが正式に合法化
1936年 シカゴ(イリノイ州)でピンボール機が違法化
1939年 ロサンゼルス(カリフォルニア州)でピンボール機が違法化

第二次世界大戦

1941年12月、日本は真珠湾攻撃を行いアメリカ・イギリスに宣戦布告。第二次世界大戦は激化の一途を辿る。アメリカのゲーム機工場は事業を停止し、積極的に軍需産業の一端を担うことになる。一方、一部のメーカーはご多分に漏れず、プロパガンダゲームを製造していたりする。
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画像出典:www.usmilitariaforum.com

1945年8月15日、終戦を迎える。アメリカは戦勝国となり、アメリカ経済も1945年から黄金期を迎えることとなる。

ジョンソン法の成立

ディガを含む様々なゲーム機がギャンブルマシンに転用される事例は後を絶たず、これらのギャンブルマシンが深刻な犯罪の原因となることから、規制のための議論が盛んになる。

1950年、米国連邦議会はゲーミング機の輸送などを禁止する「ギャンブル機器法」を成立。翌1951年、ゲーミング機を規制する「ジョンソン法」が施行された。ジョンソン法は、全てのディガを「ギャンブルマシン」に分類し、製造登録を義務付け、連邦取引委員会(日本で言う公正取引委員会)の許可無く州を越えての輸送を禁止した。

ジョンソン法
1951年に施行された、ギャンブル機を規制する連邦法。エドウィン・ジョンソン上院議員が提出したことからこの名前がついた。

米国の刑法は、州ごとに定められるものだが、ラスベガスのあるネバダ州以外は、すでに州刑法でギャンブル営業を禁止していたので、「ギャンブルマシン」とみなされた全てのディガの設置・営業は事実上不可能となった。ディガは暗黒期に突入する。

「ジョンソン法」以降のディガ

ジョンソン法以後も、違法化されたディガを運用するオペレータは後を絶たず、FBIはそれを厳しく取り締まり、ディガは没収・廃棄された。食い扶持を失った製造メーカーやオペレータは、ディガの営業を再開させるため、様々な方法を模索するようになる。

例えば、前述した現金キャッチャーのひとつ "Nickel Digger" は、ジョンソン法の及ばないカナダに基盤を移し、現金キャッチャーとしての運用を20年ほど続けていた。しかし、1975年、エドモントンの国家警察(王立カナダ騎馬警察)によりギャンブル機の指定を受け、"Nickel Digger" の時代は終焉した。

その一方で、健全な運営を望む移動式遊園地のオペレータ達はロビー活動を実施。その努力は実り、1953年、ディガは「アミューズメントマシン」に再分類された。しかし、一度貼られたギャンブル機のレッテルは、そう簡単に払拭できるものではなく、再稼働にあたっては様々な条件が課せられた。

まず「電動式でないこと」と「コイン投入口の廃止」を求められたため、既存のディガを適法機にするべく、筐体の改造が進められた。また、1プレイは10セントを超えてはいけない、1ドル以上の景品を提供してはならない、とも規定し、移動遊園地や感謝祭での運用しか許されなかった。これらのオペレータは合法事業として主導することになる。

この厳しい規制は、1953年から1970年代後半まで続くことになるが、この間、規制に合わせたディガを新規に開発するという動きはほとんど見られなかった。

1956年ごろにディガ・タイプのような筐体がいくつか発表されているが、「作業機械のミニチュアを操作して、砂利や障害物を運ぶゲーム」という、プライズマシンではない、純粋なエレメカとして分類されるべきものである。

『OBS:基板大好き』の「エレメカゲーム博物館」でこの時期のものが展示されていることが確認できた。
youtu.be
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Williams' Sidewalk Engineer(1955) も似ている。
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画像出典:http://www.pinrepair.com/arcade/sidewal.htm

合法事業として運営するために、既存のディガはほとんど改造されてしまったため、原型を留めている筐体の現存数は非常に少なく、コレクター泣かせとなっている。

ディガの衰退・クレーンゲームの時代へ

1974年、連邦法の緩和により、ディガにコイン投入口が復活。同時に、1プレイ料金の上限は25セントに引き上げられた。しかし、20年以上停滞し続けているディガの推進力にはならなかったようである。

1980年初めごろ、ヨーロッパや日本などから、新しいタイプの「クレーンゲーム」が押し寄せることになる。マイコン制御による大きなクレーンゲーム機はアメリカを席巻し、1920年代から受け継がれてきた昔ながらのディガ・ビジネスは過去のものとなった。

現在アメリカでは、パーキングエリアやウォルマート、レストランやスーパーマーケットでも見られるほどクレーンゲームは身近な存在となった。場末に設置されている筐体には、蛍光カラーのボールだったり正体不明のぬいぐるみが入っていたりするが。

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2010年、ロサンゼルスにて筆者撮影

参考資料

書籍

それは「ポン」から始まった-アーケードTVゲームの成り立ち

それは「ポン」から始まった-アーケードTVゲームの成り立ち

名著中の名著。今回はほとんどこの本の引き写しである。

『月刊アミューズメント・ジャーナル』バックナンバー各種
株式会社アミューズメント・ジャーナル
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画像出典:月刊アミューズメント・ジャーナル2017年10月号
業界紙。市販されているものではないので、ヤフオクで入手した。


Antique Arcade Game Ads - 1930s to 1940s

Antique Arcade Game Ads - 1930s to 1940s

1930-40年代のアーケード機のAds(広告)を集めたペーパーバック。白黒印刷だがなかなかに興味深い。プロパガンダゲームの存在はこの本で知った。
Antique Arcade Games: Mike Munves 1939-1962

Antique Arcade Games: Mike Munves 1939-1962

同じ著者が出しているペーパーバック。当時定価で買ったが中古価格がすごいことになっている。

ウェブサイト

Amusement Journal [アミューズメント・ジャーナル]
同名のアーケード業界誌のウェブサイト。

ゲームマシン
名著「それは『ポン』から始まった」発行元サイト。サイト構成は地味だが、定期的に配信されるニュースはどれも良質の記事ばかりである。

www.gameroomantiques.com
アメリカの古典アーケード機の情報満載。

Marvin's Marvelous Mechanical Museum
Internet Archive にて閲覧)

付録:年表(海外編)

1870頃
いわゆるペニーアーケードの登場。「ノベリティ」(Novelty:ちょっとした新規性を売り物にした機器の総称)が主。覗きこんで連続写真を見るキネトスコープ(エジソン発明)や立体写真ボックス、占い機、力試し機、体重計などいわゆるアーケード(小売店が列ぶ通路)の一角を占めていたことからこう呼ばれることになった
1896?
子供向けのディガが登場。完全機械式、ハンドクランクを有していた。
1899
世界初のスロットマシン「リバティベル」登場。3リール、ハンドル操作、自動ペイアウトを備えたスロットマシンの基本形。自動賭博を前提とした、明らかなギャンブルマシン(ゲーミング機)だった
1910s
スロットマシンが多くの州やカウンティ(州より小さい行政区間で市を含む)で違法化
1910
スロットマシン、ミルズ・ノベリティ社「オペレータベル」登場。リール上の絵柄にチェリーやスイカ、洋梨などのフルーツを採用、表向き硬貨の代わりにガムを払い出すという偽装を施した。
1915頃
機構型のディガが登場?
1920s
「狂騒の20年代」この頃からアーケード機全般にアール・デコ調のデザインが増える。1920s-1930sに発売されたディガのほとんどは電気的に稼動し、技術介入の要素はほとんどなかった。
1924
Erie Digger(1924-1946)登場。ジョンソン法まで重宝される。
1926
Bartlett Nickel Digger (1926-1931)登場。スロットマシンの激増によりギャンブル化の波が押し寄せる中、名前の通り初めからギャンブル用途のマシンである。この時代のほとんどのディガは、技術介入の余地はほとんどない。
1928
Exhibit Supply(エキジビットサプライ社)から Iron Craw 登場
1929
ウォール街大暴落と世界恐慌(1929-1933)
1930s
ディガ人気最高潮。35社以上が製造・販売。プライズとして1ドル銀貨や紙幣、コインをセロファンで束ねたものを使い出した。この頃は1プレイ5セント。遊園地や海岸沿いの遊歩道、市の公園などで見られた。多くの州や国のドラッグストア・カジノや国際博覧会、移動遊園地で見られた。多くの製造モデルは、1930年代の高級ホテルや駅の装飾にフィットした、とても精巧なデザインだった。これらのモデルは "Hotel Models" と呼ばれ、今日の目利きのコレクターが血眼になって探す対象である。
1930
ピンボールの原型となる、ゴットリーブ社のバッフルボールが人気。仕事に就けない労働者が、ポケットにある小銭を支払うだけで遊ぶことができたことがヒットの要因。ピンボール機の人気は大きくなり、100社近くが市場に参入したと言われる
1931
ラスベガスのあるネバダ州でギャンブルが正式に合法化
1933
バリー社の自動ペイアウト式ゲーム機「ロケット」登場。ピンボールのギャンブルマシン化が加速する。世界恐慌の底を迎える
1936
シカゴでピンボール機が違法化
1939
ロサンゼルスでピンボール機が違法化
1940s
40年末頃、1ゲーム10セントが基本相場に。大きな移動遊園地は、ディガを複数所有し運用するのが定番となる
1941.12
真珠湾攻撃。ゲーム機工場は事業を停止し、積極的に軍需産業の一端を担うことになる。一部メーカーは、プロパガンダゲームを製造する
1945.8
終戦。1945年-1973年までアメリカ経済は黄金期を迎える(経済悪化の原因となるベトナム戦争の終焉は1975年)
1946
Erie Manufacturing Corp から余剰品を購入する動き
1947
ゴッドリーブ社のフリッパーを初採用したピンボール「ハンプティダンプティ」登場。フリッパーの登場により、ゲーミング機ではなくスキルゲーム機としての要素を確立
1950
国連邦議会はゲーミング機の輸送などを禁止する「ギャンブル機器法」を成立させる
1950s
Chicago Coin's Steam Shovel(1956)、Williams' Crane(1956)など、ブルドーザーを動かすだけ? の、景品払い出し口のないエレメカが登場する
1951.1
ジョンソン法(Johnson Interstate Transportation Act)が施行。すべてのディガをギャンブル機とみなした。以降、新しいディガはほとんど登場しなくなるスロットマシンなどのギャンブル機が深刻な犯罪の原因となることから、それらを規制するための議論が盛んになり、ジョンソン法が制定される。遊戯の偶然性とプレイヤーのスキルという2つの要素を見い出し、偶然の遊戯の結果として財物を提供する仕組みの遊技機をゲーミング機として定義した。製造登録を義務付け、連邦通称委員会(FTC)の許可無く州を越えての輸送を禁止した。米国で刑法は各州で定めていることから、州刑法でギャンブルを禁止し、事実上ゲーミング機の設置営業を禁止していた。以降、ゲーミング機は、この連邦法と州法によって規制されることになる。当時、ネバダ州だけが州政府機関であるゲーミングコントロールボードの監視下でギャンブル営業が許可された。
→(スロットを製造していた)バリー社はスロット以外のゲーミング機の製造に追われた
→ミルズ社は販路を国内から英国に移行
→日本の米軍基地内はジョンソン法適用外。サービスゲームス(今のセガ・インタラクティブ)はそこに売り込んだ
FBIは、ジョンソン法後も運用をやめないオペレーターを厳しく取り締まり、ディガは没収・廃棄された。業務としてのマネー・ディガはトドメを刺された。
1953
ロビー活動により条件付きでディガが認められる。「電動式ではない」「コイン投入口は不可」「景品の払い出し口を有しない」ゲーミング機からアミューズメント機への転換が図られる。適法機にすべく、既存のディガの改造が進められた。まずはカーニバルゲーム機のみから始まった。カウンターにお金を支払い、係員はキャビネット裏の紐を引くことで機械を動作させていた(縁日方式)。お金を景品にしてはいけない、1ドル以上の景品を提供してはいけない、一プレイは10セントを超えてはいけない、さらに収穫祭や感謝祭での運用でしか許されなかった。1953年から1970年後半まで、ディガーは移動遊園地での興行のみに限られた。何人かの放浪(ジプシー)ビジネスマンは、合法事業として主導した。
1962
ジョンソン法改正
1974
連邦法規制緩和、1プレイ25セントまで。コイン投入口の復活
1975
カナダに基盤を移した"Bartlett Nickel Digger"が、エドモントンの国家警察(王立カナダ騎馬警察)によりギャンブル機指定を受ける
1978
オハイオ州の裁判で、ピンボールはギャンブル機ではないと判決が下った。以下の「ゲーム・オブ・~」の概念が提唱された。
ゲーム・オブ・チャンス(運試しのゲーム=偶然の遊戯の結果でペイアウトを設けるとギャンブル機)
 ゲーム自体にあまり意味はなく、金銭といったペイアウトを得ることを目的としたもの。
ゲーム・オブ・スキル(腕前を競うゲーム機=上手い人は必ず勝つのでギャンブル機にならない)
 プレイヤーが腕前を披露して、ゲームをする満足感だけで成り立つもの。
1980s
80年初め頃、欧州からの新しいタイプのクレーンゲームが押し寄せ、新規性あるハイテクなクレーンに、古いタイプのディガは追いやられてしまう。現在のクレーンゲームは、パーキングエリアやウォルマート、レストランやスーパーマーケットでも見られる
2008.1
イリノイ州の州法改正によりクレーン機の商品限度額が5ドルから25ドルに引き上げられる。また、同改正により、(偶然性に左右されず)スキルで結果が決まるゲーム機を使った競技大会に賞金や賞金を提供しても賭博罪にならないことを決めた。

後編はこちらから
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