2018/07/07追記 年表の末尾に例の事件を付記した。
当ブログ(PC版)のローディングに時間がかかるような気がするので、背景を変更してみました。
はじめに
前回は海外のクレーンゲームの歴史を記した。
eagle0wl.hatenadiary.jp
今回は、日本のアミューズメント施設の顔役であり、商業的にも成功しているにも関わらず、文化的側面は軽視されている「日本の」クレーンゲームの歴史を記す。
このエントリは、いわゆる景品の取り方講座のようなハウツー動画の類ではない。
今回のエントリで扱うクレーンゲーム機は、ここでは「プレイヤーがクレーンやアームを操作して、筐体内のプライズを直接あるいは間接的に払い出し口まで運び出すことを目的とするゲーム機」と定義する。クレーンゲーム機を除く「プライズ機」はここでは扱わない。
日本のゲーム場
日本中にあるゲームセンター、アミューズメント施設の誕生と発展は、風俗営業法などの日本の法律と密接に関わっている。
1940年7月、第二次世界大戦が近づくにつれ「ぜいたくは敵だ」という風潮が強まり、娯楽や遊びに関するものが奢侈品(しゃしひん=ぜいたく品)とみなされる「奢侈品等製造販売制限規則」により、遊戯機器がすべて生産中止になり、設置運営もできなくなった。これがゲーム機に関する日本初の法規制であるとされている。
1945年8月、日本は敗戦を迎えたが、1960年代から本格的な高度経済成長期に突入する。その象徴の一つである「東京オリンピック」は1964年に開催されたが、日本のクレーンゲームにおいて重要な年は、翌年の1965年となる。
クレーンゲームと密接な関係にある出来事として、1971-1972年にピークを迎えたボウリングブームがある。1973年のオイルショックの影響で沈静化するが、筆者の母上曰く当時4~5時間待ちを経験したらしい。ボウリング場に併設されているゲーム機で時間をつぶす客によって、ゲーム場がさらに活気づくことになった。
www.nhk.or.jp
日本初のクレーンゲーム
1965年、国産初となるクレーンゲームが3つも登場する。